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外国人

オゼアス

アルビに来た外国人の中では、なかなかのビックネーム。

トヨタカップ(クラブ世界一)で日本にもきたことがあるそうです。
強さ、テクニックとあったと思いますが、
残念ながらピークは完全にすぎていました。

それでも当時のアルビでは貴重な戦力となりました。

エジミウソン、ファビーニョ、オゼアスと外国人を並べた
3トップはJ1でも
なかなかの破壊力がありました。
途中加入でしたが、J1残留の立役者となりました。

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外国人

アンドラジーニャ

決定力のある目つきの悪いストライカー。

反町アルビでは
スーパーサブ的な使われ方が多かったですが、
なにかやってくれそうな
雰囲気はもっていました。

アンドラジーニャ投入時は
かなり盛り上がりました。
大分でのプレーの経験もあり
途中加入ながら安定した成績を残しました。

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マルキーニョ

スルーパス得意なMF。
反町監督就任後、まず着手した
外国人選手の強化。

使えない選手と言われてしまったリンドマールらの
代わりに新潟にやってきました。

反町監督期待の最低限の働き
はしたようです。
実際、マルキーニョが入って
チームはかなり上向きになりました。

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イグナス

アフリカ大陸からやってきた
ストライカー。

抜群のスピードとばねでゴールを量産しました。

Jリーグではめずらしくアフリカ系の黒人で
まさにクロヒョウと言いたいところですが
風貌はどちらかと言うと爬虫類にちかかったです。^^;
息をするとき口を開けているので
迫力がありました。

当時、J1の雄ヴェルディ相手に
市陸でみせた反転してからDF一気抜きは
今でも忘れません。

一度ぬいたら追いつける選手はたぶん
いなかったとおもいます。
もう一度みたいプレーヤーのひとりです。

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セルジオ

アルビの創設期は
はずれ外国人が多いといわれた中、
唯一長期にわたりアルビで活躍したDF。

体がつよく、アルビでは完全な守備の要でした。
サポーターの人気も高かったです。
「セルジオ越後」の横断幕が印象深いです。

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アンデルソン・リマ

現時点(2009年)では
間違いなく歴代のアルビ外国人のなかでは
一番のビックネームでしょう!

フリーキックが得意な元セレソン(ブラジル代表)。
世界一ともうたわれたフリーキックは
見るものをうならせました。

フリーキックのチャンスで交代出場してきて
みごとに決める離れ技もやってのけました。

ただ、残念ながら全盛期をすぎていたためか
運動量を求められる反町アルビでは
途中出場が多かったです。

愛くるしい風貌も手伝ってか
その年のJリーグのオールスターにも
選出されました。

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マルクス

2年のアルビ在籍期間
2度J2得点王を獲得した
得点感覚に優れたストライカー。

スピードのあるタイプではなく
ポジション取りとキックの正確さが持ち味。

けっして他のブラジル人と比べてテクニックが
あったようには見えませんでしたが、
これだけの結果を残したのはさすがです。

ある意味日本人が手本にできる選手でした。
接触プレーではすぐに痛がる演技派でもありました。

最後は契約がうまくまとまらず、惜しまれながら、
チームを去ることとなってしまいましたが
その後移籍した川崎フロンターレでは
目立った結果が残せなかったところを見ると、
J1レベルでは助っ人としてはものたりなかったのかも。
ただ、間違いなくJ1昇格の立役者ではあります。

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エジミウソン

エジミウソン
新潟を支えたエースストライカー

来日当初はまだ若く、
ブラジルでもまだ知る人ぞ知るという
程度の存在。

こんな選手を発掘してきた
フロントはさすがです。

入団当初は日本のサッカーになじめず、
前ストライカー、マルクスと比較されたりして、
サポーターの間では
エジミウソンは使えないんじゃないか
との声も聞かれましたが、
その後はご存知の通り
Jリーグを代表する
ストライカーに成長しました。

ただ、マルクスやファビーニョと違い
新潟を愛する姿勢はあまり感じられなかったのが
残念でした。

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ファビーニョ

アルビの歴史の中でも
最もサポーターに愛された外国人選手と
言ってもいいかもしれません。

プレースタイルはスピードを生かした
突破が持ち味。

ふらふらになりながらも
最後まで走り続ける姿はサポーターの共感を呼びました。
温泉好きで、新潟を愛してくれたのも
人気のひとつでした。

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シルビーニョ

ベガルタ仙台での実績を引っさげて
アルビに加入。

さすがに計算できる選手で、チームを
引っ張りました。

的確な戦術眼で
ピッチ内の監督と評されたことも。

最後は故障がちでしたが、
大きな存在でした。