栃木から来た
長身ディフェンダー
栃木では主力だったと
いうこともあり
守備の要と期待されましたが、
ケガや外国籍枠の関係も
あったのか
ほぼ試合にからむことは
できませんでした。
残念ながら
1年で
チームを去ることとなりました。
栃木から来た
長身ディフェンダー
栃木では主力だったと
いうこともあり
守備の要と期待されましたが、
ケガや外国籍枠の関係も
あったのか
ほぼ試合にからむことは
できませんでした。
残念ながら
1年で
チームを去ることとなりました。
なかなか調子の上がらない
片渕アルビの後を継いで
シーズン途中
10試合目から指揮。
アルビレックス
シンガポールでは
十分な実績を残し
クラブからの
厚い信頼を得ていましたが、
結果は付いてきませんでした。
ここまで
守備に重きを置いていた
チームから攻撃に
重心を移動。
リーグでも
トップクラスの
得点力を誇る
チームに変容させました。
シーズン終盤に近づくにつれ
安定した強さを
発揮。
惜しまれながらの
退任となりました。
穏やかな語り口の中にも
厳しさを感じる監督でも
ありました。
ぶっきらぼうな印象ながら
ときおり見せる
笑顔が人気を呼びました。
2017年~2018年の
アルビレックスシンガポールで
達成した
2シーズンに渡る全冠制覇は
今後、伝説となることでしょう。
最終節、
退団が決まっていた
ここまで出番のなかった
キーパー野澤を
ロスタイムで出場させる
温情派でもありました。
チームの危機を何度も
救ってくれた
片渕監督が初の
シーズンスタートからの
監督就任。
キャンプからチームを
作り直しました。
開幕から指揮を取った
片渕監督でしたが、
思うような結果が出ず、
3勝3敗3分の
5部の成績での
解任となってしまいました。
後任には、
アルビレックスシンガポールで
結果を出し、
シンガポールで
最優秀監督にも
選ばれた吉永一明氏
片渕監督が微妙な成績での
解任となったこともあり
プレッシャーは
相当なものとなりましたが、
なかなか結果は
ついてきませんでした。
片渕体制とは
メンバーも大きく代わり、
攻撃的サッカーを掲げる
吉永体制の中、
レオナルドを積極的に起用。
レオナルドがみごと
2019年J2リーグの
得点王となれたのは
吉永監督の選手起用方は
大きかったと思います。
そんな中、
片渕体制では
主力でもあった
加藤大、川口が
移籍(レンタル)。
外国籍選手は
チョ・ヨンチョルを含め
6人。
外国籍選手同士でも
競争をさせるという
方針でしたが、
レオナルド以外は
助っ人としては
物足りないものと
なりました。
10位という
成績に終わりましたが、
そんな中でも
本間至恩、
秋山裕紀、
岡本將成、ら
高卒ルーキーが試合に絡み
将来を期待させる
戦い方もみせました。
J1返り咲きも
ままならず、
クラブも財政的に危機の中。
新社長に就任した
是永氏の下
クラブは大きく
変化をとげた1年と
なりました。
クラブの将来を期待させる
メソッド部門も
この年新設と
なりました。
一年での昇格をかかげ
強化部長も刷新。
監督には、実績十分の
鈴木政一監督を迎え、
j1昇格をめざしました。
選手が自分で判断できなければ
昇格できても
J1では勝てないと、
J1を見据えた
チーム作りを
模索。
期待をもたせましたが、
勝ち星は、なかなか伸びず
シーズン途中で、
無念の解任と、なってしまいました。
その後を継いだ、片渕監督は、
約束事を多くして、
ボールを奪われたら、
奪い返す。を徹底。
鈴木アルビでは、
中心選手であった安田を
サブへ回す大胆な
起用方もありました。
一時は、まさかの
J3降格もちらつく中
連勝も含み
チームを立て直し、
降格だけは免れました。
外国籍選手も一新
されましたが
エースフォワードと
期待された
ターレスが不発。
ゴールキーパーに
ブラジル代表経験もある
アレックスムラーニャを
起用するも
目立った活躍は
できませんでした。
そんな中でも、
大卒ルーキー、
渡辺新、戸嶋が台頭
最後は、スタメンを勝ち取りました。
高卒ルーキー、
渡辺泰基も試合にからみ、
将来に期待をもたせました。
なんとか、浮上するため、
ブルーノメネゲウ
ヘイス
とブラジル人を
途中加入させるものの
完全に失敗に
おわってしまいました。
吉田達磨監督、三浦監督、鈴木政一と
3年連続の監督解任劇となった新潟で
全てにおいてピンチヒッターと
なった男気あふれる監督。
2019年は早くから監督就任の
発表もあり
キャンプからチームを任されました。
ところが、チームは開幕から
なかなか波に乗れず、
9節が終わった時点で、
3勝3敗3分。
電撃解任となってしまいました。
守備の立て直しを
掲げるもなかなか失点が止まらず、
守備重視の戦術の為
攻撃力も低下。
最後は
守備重視、ロングボールを多用する
試合内容にも
サポからの不満が噴出。
残念な結果となりました。
サポを大切にする監督で、
サポーター席まで来て
サポートを頼む姿は
語り草となりました。
歴代監督の中でも
アルビ愛が一番ある監督でも
ありました。
若手の育成にも携わっていたこともあり
若い選手には
兄貴分にとして慕われていました。
2000年 – 2014年途中
2017年
Mr.アルビレックスと言えば、
現段階ではこの人しかいません。
ミスターの称号を得るというのは、
ただ、チームで活躍すれば良いと
言う訳ではなく、
あるゆる要素が必要です。
そういう意味でも
ミスターの称号を与えられるに
ふさわしい選手でしょう。
高校時代から
名前はすでに
全国区。
J1も狙える実力もありながら
当時、J2で下位にあえぐ
練習場もないアルビに加入するのは
ずいぶん悩んだと聞いています。
それでも
結果的にはその決断が
Mr.アルビレックス誕生の
第1歩となりました。
高い技術でパスを配給するさまは
1部のサッカーファンの間では
日本代表にどうかという
声も聞かれました。
ビックスワンで行われた
引退試合には
ミスターにふさわしい
豪華なメンバーが
集まってくれました。
韓国からやって来た
長身ディフェンダー。
高さあり、強さありで
最強のディフェンダーでした。
データ上でも立証されましたが、
空中戦ではJ2リーグでは
無敵でした。
アルビに移籍してからも
水戸にレンタルされたりで
なかなかJ1の舞台で活躍することは
できませんでした。
2017年に久しぶりにJ1の舞台にたつも
残念ながらその実力を発揮することは
できませんでした。
空中戦では絶対的な力を発揮するものの
時折みせる集中力を欠いたプレー。
カバーリングや
他のDFとの連携でも
なかなかうまく行かないことも
多かったです。
それでも、新潟での活躍が認められ
韓国代表に選出されるまでに
成長しました。
アルビ在籍中はまだ若かったので
これからの活躍に期待ですね。
1999年-2001年(J2)
2004年-2007年途中(J1)
浦和を戦力外になり、
アルビで花開いたということもあり、
雑草魂なイメージ
で人気者でした。
左右のコーナーキックを任され、
フリーキックも蹴れる
実力者。
J1アルビでのサイドバック時代は、
日本代表の声がかかるほどの
活躍をみせました。
アルビ初の日本代表誕生かと
期待をもたせましたが、
実際には選出はありませんでした。
引退間際に
アルビレックスシンガポールに
来てくれたことは
アルビサポにとっては
歓迎されました。
2000年 – 2002年
2004年 – 2008年
最初のJ1昇格時
2000年~2008年あたりは
新潟の顔とも言える存在。
寡黙で、献身的なプレーで
新潟らしい選手とも言われました。
独特なフォームで走る姿は
遠目にもすぐにわかる選手でも
ありました。
J2時代から、
アルビの中でJ1ですぐに通用するのは
寺川と言われ、
事実、当時J1大分に移籍後も
すぐに活躍していました。
あまりにも、印象が強いため
アルビをJ1へ昇格させた
立役者のひとりと思っている方も
いますが、
J2優勝時は、大分に在籍して
いませんでした。
寺川が新潟出身だと思っていた
サポも当時は多かったです。
2003年-2005年途中まで。
言わずとしれた
元日本代表の中心選手。
実績という面では、
今後、彼を抜く選手は現れないでしょう。
練習場もままならない
当時のアルビにまさかの加入!
新潟のサッカーファンが震撼しました。
技術も去ることながら、
強烈なキャプテンシーでチームを
ひっぱりました。
J1昇格は彼なしでは
成し遂げることはできなかったでしょう。
J2優勝時に発した
「新潟最高!」の言葉は
何年も語り継がれました。